ブランコ・シカティック(セルビア・クロアチア語: Branko Cikatić, 1954年10月3日 - 2020年3月22日)は、クロアチアの元男性キックボクサー。スプリト出身。K-1 GRAND PRIX '93王者。
初代K-1 GRAND PRIX王者であり、「石の拳」と称された。右ストレート、右スイングフック、カウンター気味のショートの左フックを得意とし高いKO率を誇った。元軍人で、クロアチア紛争にも参加したという異色の経験を持つ。
来歴
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国クロアチア社会主義共和国スプリトに生まれる。12歳からテコンドー、16歳から松濤館流空手を始め、18歳でキックボクシングに転向した。
1993年4月30日、K-1 GRAND PRIX '93に出場。既に38歳であったが、1回戦でチャンプア・ゲッソンリット、準決勝で佐竹雅昭、決勝ではアーネスト・ホーストをそれぞれKOで破り、初代K-1 GRAND PRIX王者となった。
1994年12月10日、K-1 LEGEND 乱で自身の引退試合(引退の理由は衰えなどではなく、当時のクロアチア独立戦争に参加するため)を行い、アーネスト・ホーストと1年8か月ぶりに再戦。KO勝ちで返り討ちにし、引退を飾った。また、シカティック本人が、自身のベストバウトとして、この試合を挙げている。引退後は予定通り、クロアチアの特殊コマンド部隊教官として、スポーツ選手で構成された部隊を率いて、戦場に出た。
1997年3月16日、K-1 KINGS '97で現役復帰し、ムサシ(武蔵)にKO勝ち。同年7月20日、K-1 DREAM '97でサム・グレコに生涯初のKO負け。この試合でシカティックは立ったまま失神。「チャクリキに痛いという感情はない」という自身の言葉を実証した形になった。
1997年9月7日、K-1 GRAND PRIX '97の1回戦でマイク・ベルナルドと対戦する。1ラウンド開始直後にお互いに打ち合いに行った際、ベルナルドとシカティックの額が当たり、そのままベルナルドの連打を浴びて倒れる。シカティックの額の傷の深さからドクターが試合を止めTKO負けとなった。
1997年10月11日、総合格闘技PRIDEに参戦。PRIDE.1でラルフ・ホワイトと対戦。グラウンド状態のホワイトにシカティックのキックが当たり、ノーコンテストとなった。
1998年3月15日、PRIDE.2でマーク・ケアーと対戦。ケアーのタックルに倒されないようにロープ掴みを連発し、失格負け。ホイス・グレイシーの欠場による緊急参戦であった。
1999年9月12日、PRIDE.7でモーリス・スミスと対戦。1R前腕チョーク(PRIDEの公式記録はギロチンチョーク)で一本負け。
2005年7月18日、WORLD OYAZI BATTLE -SAMURAI RETURN!-で金山裕文と18オンスのグローブを使用して対戦し、1-0の判定ドローとなった。
その後は母国クロアチアで警備会社「タイガー・シカティック」の代表取締役として、クロアチアの要人(大統領や大臣)の警護などを業務とする会社を経営していた。また、日本クロアチア協会の常任理事も務めていた。
2017年4月21日、来日、東京新宿でのドージョーチャクリキ主催のパーティーに参加。
2018年に肺塞栓症と敗血症のため入院。パーキンソン病も発症した。2020年3月22日にソリンの自宅で死去。65歳没。
戦績
キックボクシング
- 戦績 169戦 150勝 15敗 3分 138KO 1NC
- K-1: 11戦 6勝 5敗 6KO
総合格闘技
獲得タイトル
- アマチュア
- 第3回WAKO欧州選手権大会フルコンタクト部門男子79kg未満級 優勝(1978年)
- 第4回WAKO欧州選手権大会キックボクシング部門男子79kg未満級 優勝(1980年)
- 第5回WAKO欧州選手権大会フルコンタクト部門男子79kg未満級 優勝(1981年)
- 第2回WAKO世界選手権大会フルコンタクト部門男子74kg未満級 3位(1979年)
- プロ
- IKBF世界ヘビー級王座
- WKA世界王座
- K-1 GRAND PRIX '93 優勝
脚注
関連項目
- 男子キックボクサー一覧
- PRIDE選手一覧
- K-1王者一覧
- K-1選手一覧
外部リンク
- PRIDE 選手データ - Internet Archive
- ブランコ・シカティックの戦績 - SHERDOG(英語)



