弘治の内乱(こうじのないらん)は、弘治元年(1555年)から永禄3年(1560年)頃まで能登国において続いた合戦。

内容

能登畠山家で実権を握っていた温井総貞を排除しようと、畠山義綱が暗殺したことにこの合戦の原因があると言われる。温井氏と温井氏と縁が深い三宅氏は、総貞の暗殺に義綱に対して挙兵したのが弘治元年(1555年)である。温井氏らは、畠山一族の畠山晴俊(はたけやま はるとし) を当主として擁立し、加賀一向一揆を頼りとして合戦を展開する。

1555年~1558年春

しかし、勃発序盤から反乱軍は劣勢であり、この期間には、反乱軍の主軸となっていた大将の畠山晴俊以下、温井続宗、神保総誠(綱誠)、三宅総広らが戦死するほか、三宅一族の三宅綱賢が義綱方に転じるなど、反乱軍は甚大な被害を被り、一旦加賀へ退去した。

1558年夏~1559年

同年7月、残党の温井綱貞らが再び能登へ侵攻する。更に9月には義綱軍の山田左近助が温井方へ寝返るが、綱貞・三宅俊景の戦死により、反乱軍は撤退を余儀なくされた。

1559年~1560年初

1559年3月には一向一揆を率いて再び攻め込むが長続連により撃退され、反乱軍は押水まで後退。永禄3年(1560年)頃になると温井残党は能登から一掃され、ほぼ義綱方の勝利で内乱は終息を迎えた。生き残った温井孝景、三宅慶甫、三宅綱久らは降伏したものとみられる。

脚注


外部リンク

  • 合戦見聞録-弘治の内乱
  • 弘治の内乱 - ウェイバックマシン(2007年1月3日アーカイブ分)



戦前の日本 昭和初期のカラー映像 5/5.avi YouTube

【元弘の乱 後編】幕府軍総大将、足利尊氏、朝廷軍へ寝返る! 京都、六波羅探題、滅亡! 関東では新田義貞が挙兵し鎌倉へ進撃! そしてついに北条氏

【日本の歴史】元弘の乱。 日本の歴史 日本史 歴史#雑学#shorts YouTube

1848年5月、ナポリの反乱に対抗するブルボン家の軍隊 詳細サルヴァトーレ・フェルゴラ(17991877)による絵画 ナポリ、サンマルティーノ美術館

鎌倉の歴史ー平治の乱 /鎌倉ぶらぶら